君の名は新海。

 ブログ開始。

 以前から読んだ本だの観た映画だのやったゲームだのの感想を書く場所が欲しいとは思ってた。んだけど、ツイッターでちょびっと吐き出せばそれで満足したり、いざ書こうとすると整理がつかなかったり、あとは、なあ俺、今までどれだけのブログサービスを三日使っては放置してきたよ? という内なる声に従ってきたわけだ。

 で、じゃあなんで今また、という話になるのだけど。転職もどうやら成功しそう(モノになるかどうかはともかく、少なくとも内定は貰えそう)なのでいい区切りだと思ったし、故・伊藤計劃の書籍化したブログ「伊藤計劃記録」を読み返しててこいつは面白いと思ったのもある。けど、直接の理由はそこじゃない。これがもう単純な話で、面白い映画を観てきたからだ。

 というわけで、君の名は。」を観てきました。いやもう面白かった。どれくらい面白かったかというと26日封切りのそれをもう二回観てるってところから察して欲しい。終わるまでにあともう一度は観るつもり。というかすでにしてDVD化が楽しみだったりする。「言の葉の庭」は封切りと同時にDVD売るっていうめっちゃ挑戦的なことしてたのになあ。
 最初に観たその日には感想を書きたかったし、事実ある程度は書いていたのだけれども、いま読み返してみるとわりと的はずれなことを書いてたりしたので、こうして書きなおしている次第。観た直後足すことの深夜テンションって怖い。寝ずに文章書くのは構わないが、文章は寝かせた方がいいぞ。おじさんとの約束だ。まあ、多少の瑕疵があろうとも、初発の感想を文章にするっていうのは基本的には素晴らしいことだと思うけれど。
 あとはアレだ、初日には読まなかったパンフとかダヴィンチのインタビューとかをその後読むにつけて、作家論じみたことを書こうとしてたっぽい自分がちょっと恥ずかしくなったっていうのもある。っていうかそもそも「星を追う子ども」観てないしなー。俄然興味が出てきたので近々観ようとは思うけども。
 で、「君の名は。」だ。ここまで書いておいてなんだけれど、俺は新海誠の作品群が、別に好きじゃない。特に「秒速5センチメートル」と「言の葉の庭」は二桁オーダーで観直してたり、新宿御苑の例の東屋まで三回くらい聖地巡礼に行ってるけど、別に好きだからじゃない。「お前それはアレだ、好きすぎて素直になれないやつだ」と友人に言われたけど、そういうのとも違う。「ちげーし、別に好きなんかじゃねーし」とそれっぽく返してみたりもしたけど。本当に違う。違うはずだ。
 と、思う。でもそれがなぜかが分からない。
 確かに、新海の描く空は美しくてそれだけでなんかもう十分だ。モノローグとして赤裸々すぎるほど言葉にされる心情表現は素晴らしい。音楽と情景を合わせて来られると涙腺は緩むし、キャラクターは誰も彼も愛らしい(ただユキノちゃん先生はマジで好きじゃない。隕石の直撃でも喰らえばいいと思う)。でも何かが、どこかが、俺をして新海誠の「~が好きだ」と素直に言わせるのを拒んでる。これって一体なんだろね、と首を捻る俺だ。
君の名は。」は良い。
 あれは良かった。島本和彦が「シン・ゴジラ」を観た後で「俺の負けだ」と叫んだそうだが、俺はもう声も出なかった。ただ声もなく、気がついたら盛大にうんこ漏らしてた。その後でパンツ脱いで尻を拭ってから書店にパンフレットとビジュアルブックとインタビュー記事の載ったダビンチ買いに行ったんだけど、そのあいだずっと股がスースーしてた。いやさすがにうんこのくだりは嘘だけれど。それぐらいの衝撃だったのだ。
 少なくとも、お話作りのクオリティが上がったのは確かだと思う。全体に早いテンポなのも、それが可能なまでに物語が煮詰められているからだろう。これまではタメにタメてお出ししてきた音楽の使い方も今作ではまったく違う。っていうか、モノローグともどもOPって形で冒頭にまずブチ込まれるし。インタビューで本人が言っていたところの「手癖」であるモノローグは、最初のうちこそ聞いててちょっと照れるものの、そこまでがOPって形にまとめられてると気付いてからはむしろ面白味に思えた。本編に入ってからは全然気にならないしな。むしろ、「ほしのこえ」で初めてああいうモノローグを聞いた時の良さを思い出しさえした。あとキャラクターなんだけど、今回のデザインって「あの花」の人なのね。これまでだと、ちょっとばかり古い顔とか表情をするキャラクターが多かった(「秒速」もそうだし、大成建設のCMとか「言の葉」で卵の殻噛んじゃうシーンとか)ので個人的には超嬉しかった。Z会のCMもこれ書きながら初めて観たけどめっちゃいいね。
 でも、今回俺が「好きだ」と言い切れる理由はそこじゃない気がする。
 たぶん、俺には、これまでの新海誠はちょっと濃すぎたのだと思う。(いや、冒頭で作家論がどうこうとか言ってるのに「新海誠は」って言っちゃってるけれども。まあ上でもこれまでとの比較とかやらかしちゃってるからもういいじゃないか、ということにしておきたい)。
 今回、新海誠は得意の背景を「普通」に描く。
 もちろん風景を「見せる」場面の時は、いつものように、それはもう透明感のある美しい映像を新海は描き出すのだけれど。朝の光に輝く東京、湖を取り巻くちっぽけな家々と、それぞれの場所で営まれるくらし、そして彗星の浮かぶ夜空というような光景は、現実以上の現実味を帯びて心に迫ってくる。だが、いつもの新海ならラーメン屋の厨房の配管まで美しく描いていたはずのところ、今作での新海はそれをしない。キャラクターが画面の中央にいる間、基本的に背景はその脇役なのだ。ディテールの細かさが変わった訳ではない。脱ぎ散らかされたズボンが転がる瀧の部屋、ウォシュレットの操作盤、部室の雑然とした感じ、そういったリアリティは残されつつも、決して「美しく」はないのだ(まあ単に新海自身が手を入れられた部分が少ないとかキャラクターの存在感がデカい、みたいな話かもしれんけども)。
 「普通」さは、物語にも及んでいる。
 新海誠はたぶん、希望を与えたいのだと思う。思う、っていうかもうこれは本人が言ってることなんだけど。「秒速5センチメートル」はグッドとかバッドとかそういうのじゃないんですよと。「言の葉の庭」だって、これを観た人が「ああ今日も頑張ろう」と思えるような物語、そんなものを作ったんですと。
 そこが俺には分からない。
 
以下深刻なネタバレにつき未見の方はぜひご覧になってからどうぞ)
 
 時間でも空間でも、断絶は断絶だし、別れは別れだと俺は思う。そしてたぶん、新海誠がこれまでの作品で言おうとしてきたことは、俺とは真逆のことなんだと思う。「それまで生きてきた中で今が一番幸せ」そう思えた体験があれば、全てが報われているのだと。ただ茫漠とした未来が広がっていても、その思い出があれば生きていけるのだと。その点、今回の新海誠はすごく(俺としては)普通のところにラストを持ってきたし、なんというかもう。「こういうのでいいんだよこういうので!」と思ってしまった。上から目線ですまん新海誠。もう本当、ラスト近くで胃が痛かったんだ。またか、と。この男はまた「希望を見せたいんですよ」っていいながら絶望をお出ししてくるのか、と。だから、もうすでに色んな所で言われてるけど、車窓からお互いを見つけるシーンからこっち、俺はもう完全にイキっぱなしでした。いやもちろん、彼と彼女の「その後」は決して何かが約束されている訳ではないし、そこはそれ、別のお話なのだけれども。でも、「別のお話」となるべきところを、こと彼と彼女の関係としては許さずに全て作中で終わらせてきた新海誠がこういうラストを描くってことにはやっぱり意味があるわけで。
 
(ネタバレここまで)
 
 いや、書いてみるとわざわざ長文で言うほどのこともないことに思えるな。でも書きたかったので良し。書き尽くせた気はしないけどな。もっとこう、泣きながら自分の胸を揉む女の子いいよね…とかユキノちゃん先生どのツラ下げて教師続けてやがるとかクライマックスの三葉あれ完全に油断してノーブラじゃないかとか。あと知っていますか、TSモノの作品をその道の人が見ると「自分の胸/股間を触るかシーンがあるかどうか」が重要な評価基準になるそうですよ。
 あとそうだ、これ言っとかなくちゃな。
 俺、新海のこと、すきだよ。